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困った時
日本で・・・      
 インドネシア大使館 品川区東五反田 5-2-9 03-3441-4201 http://www.indonesian-embassy.or.jp/
現地で・・・      
 日本領事館 Jl.Raya Puputan,Renon,Denpasar (0361)227628 http://www.id.emb-japan.go.jp/
 ウブド警察署 Jl.Raya Adung 110  
 ウブド・クリニック Jl.Raya Ubud №36 Chanpuhan (0361)974911  
 プラマ オフィス Jl.hanoman,padantegal (0361)973316  
 ビナ・ウィサタ Jl.Raya Ubud (0361)973285  
 アパ? Jl.Monkey Forest (0361)973246 http://www.apa-info.com/
書籍
† バリ島 爆破テロ †
2005年10月12日、バリ島・クタで無差別自爆テロが起こりました。 場所は『サリ・クラブ』。 欧州人経営の、クタでは古くからあり、有名なクラブでした。 187人が亡くなり、280人以上が重軽傷負いました。死傷者の75%は観光客だったみたいです。 同18日、初めて日本人の死者が確認されました。 横浜から新婚旅行に来ていた鈴木康介さん(34)。 妻の由香さん(33)は後日やっとDNA鑑定で判別・確認。 現在はその場所『グラウンド0(ゼロ)』に慰霊碑が建っています。クタのメイン通りの中ほどです。 近くを通ったら是非、寄って下さい。またその場所で起こった間違い最悪な間違いを、一度考えてください。グラウンド・ゼロ慰霊碑慰霊碑2
† マルガの英雄 †
第二次世界大戦後、インドネシア独立のためにオランダと戦い、命を落とした12人の日本人青年達がいました。 彼らは大戦後も家族を日本に残し、自分達はバリ島に残り、ある者は現地名を名乗り、死ぬまで戦った方たちです。 内、7人は最終激戦の地、マルガでオランダ軍の集中砲火の中、グラライ将軍達と最後まで抵抗した方もいます。 どんな思いで、現地に残り、共に戦い、亡くなっていったか。 デンパサールの空港の名前は独立戦争を指揮したン・グラライ将軍の名前です。 バリに着いたら思い出してくみてください。
№221 Bung Ali (梶原)陸軍兵  
№300 I Made Putera (高木米治兵曹長) 1919.7.3. 生 宮崎県東臼杵郡
№320 I Wayan Sukera (松井久年兵曹長) 1920.1.1. 生
№321 I Made Sukeri (荒木武友上曹) 1920.9.1. 生 長崎県南高来郡
№332 Bung Selamat 陸軍曹長 神戸  
№339 I Ketut Sunia (海軍軍属 OTATE) BUNG Tjanggu  
№483 I Ketut (木村 ?) 陸軍兵  
№429 I Gede  
№553 I Ketut Mima (美馬芳夫二曹) 1925.1.14 生
№554 I Mada (中野)陸軍兵  
№824 I Wayan Gede Wadya (軍属)  
№1327 氏名不詳 無名戦士 (工藤栄 か Sogaか) 1913.9.27.生
日本人の墓グラライ将軍
† 三浦 襄氏 †
インドネシアの独立を願い、また日本の敗戦の責任と、植民地化していた事を詫びる為、自決をしました。 人生の50年間をバリで過ごし、植民地となり苦労する現地の方と共に戦争を耐え、日本が『インドネシア』の 独立を認めると決めた昭和20年9月7日、しかし敗戦と共にそれも不可能になり、氏は自決しました。 彼の葬儀は国葬のように執り行われ、今もデンパサールの住民墓地に眠っています。